ビサウからフェリーで河口を渡る。
いっちょ前にウェブサイトなんてものがあって、8時出港と書いてあったので7時半に港に行ったら、10時出港だよと言われた。
事情があって遅れているわけではなく、いつも10時発のような言い方だった。
チケット1500CFA(282円)、自転車1000CFA(188円)。
港にはイミグレーションがあり、なぜかパスポートにスタンプが押された。
対岸はまだギニアビサウ、国境まで100km以上あるのに。
そしてここでもまた1000CFA(188円)払わされた。
英語を話せる人がおらず、よくわからない、従うしかない。
しかし2時間半待ちか。
混みそうだったので早めに座る場所を確保するが、やることない。
乗客たちは大量の物資を対岸の村へ運ぶようだ。
おばさまたちは息をつく間もなく大声でしゃべり続ける。
いったい何をそんなにしゃべることがあるのだろう?
10時発と言われて真に受けたら旅の素人。
案の定10時15分ぐらいに出発。
対岸まで15kmほどだが、おそろしく低速のフェリーで、1時間45分もかかった。
自転車より遅い。
大変なのはここからだった。
岸に近づくと、乗客たちは荷物を抱えて、いや正確には頭に乗せて、タラップの先端まで詰め寄る。
それはいいのだが、対岸にもこれから乗ろうとする客たちが、同じように荷物を抱えてギッシリ詰め寄っている!
これじゃ乗り降りできないじゃないか。
バカなのかな?
着岸すると、両者ともにどうにも動けず、にらみ合って膠着状態。
何これ?
状況がよくわからないが、船はいったん離岸して、船体をグルっと一回転させて再び着岸。
対岸の人たちはギリギリまで迫っていたので、危うく船体に接触、いや実際接触していた人もいたかもしれない。
危険きわまりない。
着岸するや、まだタラップも降りていないのに乗り込もうとする者がいる。
それをクルーが警棒のようなもので殴りつける。
何これ?
ただ船を乗り降りする。
それだけのことに、まるで暴動でも起きるかのような緊迫した空気。
今度はタラップを完全に降ろさず、1mほどの高低差をつけた状態で、ひとりひとり下船する。
対岸の人混みに中央にわずかなスペースをつくらせて、そこを通って行く。
スキを見て船に乗り込もうとする者がいると、またクルーが警棒で殴る。
奴隷制度ってもう終わったよね?
岸には柵も何もないので、押し合いになったりしたらドミノ倒しになって河に落ちる。
依然として危険な状況。
対岸の人を岸から遠ざけて別の場所で待たせておけば何の問題もないこと。
ほんと何これ?
タラップに1mも高低差があると、僕は自転車を自力で降ろせない。
しばらく動かず状況を見守り、最後にクルーが僕にGOサインを出し、屈強な男4人がかりで自転車を降ろして、無事下船。
ただ船を降りる。
それだけのことにこんな戦慄したのは初めてだ。
ちなみにこのフェリーは月~金の週5便。
毎日こんなことやってんの?
この日は8時半ぐらいに走行開始のプランだったが、ようやく走行開始できたのは12時半だった。
しかも未舗装。
それほど悪路ではないが、ところどころ砂地もあり、ペース激落ち。
ここはアフリカ、そこまで見通していなかった僕もバカだった。
また内陸に入って気温上昇。
井戸水を恵んでもらって暑さをしのぐ。
そしてまた「ブランコ!」激化。
木陰で涼んで休憩できるのも束の間、すぐに囲まれる。
まったくまとまりがないので撮影も難しい。
皆それぞれ自由に動き、自分が一番前に前に、と詰め寄ってくる。
なるほど、これがそのまま大人になった図が先ほどの乗降の光景というわけか。
いい道だ。
当初の予定の半分ほど、フラクンダという村でストップ。
宿なんかないのはわかっていたが、一応泊まることはできないかと村人に聞いてみた。
ここで運良く、英語を話せる人と遭遇。
なんとガンビア人。
彼はここの地元民ではないが、村長らしき人のところへ連れて行ってもらい、部屋を提供できる人を紹介してくれた。
湿度が上がり、とても蒸し暑い。
日没後もテントにはいられず、バルコニーで夜風にあたる。
あっという間に村は暗闇となる。
夜は長い、村人たちは闇の屋内でどうすごすのだろう?
夜風に運ばれてくる話し声や生活音に耳を傾けてみる。
朝、日の出とともに水汲みが始まる。
小さな村でも、人間が消費する水のなんと大量なこと。
日中は途切れることなく誰かしら水を汲んでいる。
限りなく自給自足に近い生活を営む農村。
水や食糧は金で買うものではなく、何か買おうにも店もない。
こういった土地での旅は、金とか経済といったものは取っ払われ、人々の善意に依存することになる。
かれらと同じ井戸水を飲み、マンゴーやカシューを分けてもらって、生命をつなぐ。
記憶の底に眠る根源的な何かを呼びさます、これがアフリカ旅。
そういえば、ラマダンが始まった。
パキスタン、イラン~中央アジアに次いでラマダンを経験するのは3回目だが、この辺はイスラムといっても断食する人なんていなさそう、少なくとも僕には影響なさそうだ。
どういったコンセプトでそんなヘアスタイルに?
「ブランコブランコー!」と大興奮する子供が多い一方で、僕を一目見ただけで恐怖におののいて泣き叫び、全速力で逃げ去っていく子供も少なくない。
いずれにせよ、かれらにとってブランコは未知との遭遇なのだ。
僕が生まれた世界では、肌の色で人を判断してはいけないと教育されてきた。
しかし根源的なものがあらわになるアフリカでは、人はどうしたって肌の色を見るということを思い知らされる。
だからこそ、僕がブランコであるからこそ、かれらはこんなにもキラキラした瞳を見せてくれたのだ、とも思う。
Conakry, Guinea
20772km