2018年6月30日
アフガンボーダー 2
タジキスタンもアフガニスタンも、かつては同じペルシャ帝国の一部だったので、この二国には言語や文化に共通性がある。
そして両国ともに、石油が出ない。
主産業は農業。
本来、戦乱とは無縁のはず、ここでもやはり大国のゲームに運命を左右されている。
行ってみたいな。
標高1500~2000m。
暑い、乾く。
ぼったくり、強欲なおばちゃんが現れるようになった。
売店で、冷えていない薄汚れた炭酸を2Lほど買おうとしたら30ソモニ(361円)と言われた。
レストランで一食分でもそんなにしない、「いやいや、10ソモニぐらいでしょ」と言ったらしれーっとした顔をしやがった。
腹が立ったのでもちろん何も買わずに店を出た。
時々、「HOMESTAY」と書かれた看板がある。
正規のホテルではなく、民家の空き部屋を旅人に提供しているだけなのだが、僕もそういうところでは多くを望まない、Wi-Fiなんてあるわけないし、ホットシャワーがなくてもかまわない、ボットントイレでも気にしない、そのかわり安い料金を期待するのだが、100ソモニ(1204円)も請求してくる。
ちゃんとした設備が整ったホテルと同じ、いやそれ以上の額だ。
交渉して80ソモニにしてもらったのだが、僕は100ソモニ紙幣しか持っておらず、おばちゃんはお釣りがないということで、結局100ソモニ払ってしまった。
いくら一般家庭でもてなされても、こういうのは後味悪い。
同じ山岳地帯でも、ラダックやヒマラヤではこういうことはなかったな。
タジキスタン、ちょっと用心しよう。
ふつうは川を登るにつれて幅狭で急流になるものだが、逆に幅広で流れもゆったりしてきた。
泳いで川を渡れちゃいそうだ。
ルシャンという街で、客のほとんどがサイクリストという宿に1泊。
ライダーもバックパッカーも、こんな半端なところで泊まったりしないので、外国人向けの宿は必然的にサイクリストであふれる。
ドミトリーUS$10。
Wi-Fiがないということを除けば何の文句もない、いい宿。
ここでダビッドと再会。
彼はここから別ルートになるので、ここでお別れ。
寄ってくる子供たちも商売っ気が強くなってきた。
「ウチに泊まっていきなさい!」と全力で僕の自転車を止めようとしてくる。
Khorog, Tajikistan
アフガンボーダー 1
カレイクムの先は、アフガニスタンとの国境をなす川に沿って進む。
川の対岸、アフガニスタンの村が見えてきた。
全域で最高レベルの退避勧告が出されているアフガニスタン。
旅行者が立ち入れるような状況ではないらしい。
川幅は、狭いところだと100m以下。
サッカーをする少年たちの声も聞こえる。
「インドとの交易ルートを死守しようとするイギリス vs 南下して勢力を拡大しようとするロシア」
アフガニスタンはこの二大国がぶつかる緩衝地帯となり、侵攻を許しては抵抗し、を繰り返してきた。
イギリスがインドから手を引いた後は、アメリカがインド洋に進出してソ連の南下を阻止すべく睨みを利かせてきた。
1979年のイラン革命は、隣国のアフガニスタンにも大きなインパクトを与え、イスラム政権の樹立へと駆り立てた。
ソ連は、その影響が自国のイスラム圏に飛び火して分離独立運動を引き起こすと懸念し、アフガニスタンに侵攻した。
ソ連軍の侵攻は、アフガニスタンのイスラム過激派に火をつけ、オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダを生み出した。
このアルカイダをバックアップしたのが、アメリカのレーガン政権。
敵の敵は味方ということで、ソ連と戦う者であればテロ組織であれゲリラであれ支援するのがアメリカ。
アルカイダはアメリカ製の武器でソ連と戦い、勝利した。
ソ連崩壊後、反政府軍のタリバンが頭角を現し、みるみる勢力を拡大してアフガニスタンの国土の大半を実効支配するに至った。
2001年9.11テロ後。
ブッシュ政権はテロの主犯をビン・ラディンと断定し、身柄の引き渡しを要求したがタリバンはこれを拒否、アメリカはアフガニスタンに侵攻した。
タリバンは崩壊し、新政権樹立。
オバマ政権時にアメリカ軍撤退。
しかしタリバンは息を吹き返し、イラク戦争が生み出したISも戦乱に加わった。
IS壊滅後の現在も、政府軍とタリバンの衝突が続いている。
自転車に付けているアクセサリーやお守りに興味を持って「ちょうだい」と言ってくる。
そんな目で見つめたって、あげないよ。
このエリアは道はそれほど険しくなく、舗装箇所もそこそこある。
Khorog, Tajikistan
5029km
川の対岸、アフガニスタンの村が見えてきた。
全域で最高レベルの退避勧告が出されているアフガニスタン。
旅行者が立ち入れるような状況ではないらしい。
でも対岸に見える農村は平穏そのもの。
川幅は、狭いところだと100m以下。
サッカーをする少年たちの声も聞こえる。
「インドとの交易ルートを死守しようとするイギリス vs 南下して勢力を拡大しようとするロシア」
アフガニスタンはこの二大国がぶつかる緩衝地帯となり、侵攻を許しては抵抗し、を繰り返してきた。
イギリスがインドから手を引いた後は、アメリカがインド洋に進出してソ連の南下を阻止すべく睨みを利かせてきた。
1979年のイラン革命は、隣国のアフガニスタンにも大きなインパクトを与え、イスラム政権の樹立へと駆り立てた。
ソ連は、その影響が自国のイスラム圏に飛び火して分離独立運動を引き起こすと懸念し、アフガニスタンに侵攻した。
ソ連軍の侵攻は、アフガニスタンのイスラム過激派に火をつけ、オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダを生み出した。
このアルカイダをバックアップしたのが、アメリカのレーガン政権。
敵の敵は味方ということで、ソ連と戦う者であればテロ組織であれゲリラであれ支援するのがアメリカ。
アルカイダはアメリカ製の武器でソ連と戦い、勝利した。
ソ連崩壊後、反政府軍のタリバンが頭角を現し、みるみる勢力を拡大してアフガニスタンの国土の大半を実効支配するに至った。
2001年9.11テロ後。
ブッシュ政権はテロの主犯をビン・ラディンと断定し、身柄の引き渡しを要求したがタリバンはこれを拒否、アメリカはアフガニスタンに侵攻した。
タリバンは崩壊し、新政権樹立。
オバマ政権時にアメリカ軍撤退。
しかしタリバンは息を吹き返し、イラク戦争が生み出したISも戦乱に加わった。
IS壊滅後の現在も、政府軍とタリバンの衝突が続いている。
自転車に付けているアクセサリーやお守りに興味を持って「ちょうだい」と言ってくる。
そんな目で見つめたって、あげないよ。
このエリアは道はそれほど険しくなく、舗装箇所もそこそこある。
Khorog, Tajikistan
5029km
2018年6月25日
山岳地帯 2
タビルダラという街で1泊。
ドイツ人のダビッドも一緒に。
夕食朝食付きで60ソモニ(721円)という安さ。
到着したのは15時ぐらいだったのだが、ダビッドが腹が減ったのでランチを食べたいと言ったらランチも無料で作ってくれた。
旅人交流に積極的ではない僕だが、人間やはり相性。
ダビッドとは波長が合うようで、ごく自然にすんなりと仲良くなり、長時間一緒にいても苦にならない。
「一緒に走ろうぜ」と言ったわけでもないのだが、何となく一緒に走ってしまう流れに。
重量というのは走行ペースに非常に大きく影響する。
タジキスタンを走るサイクリストの多くは未舗装山岳走行に特化した軽量スタイル。
大陸横断を前提としている過積載スタイルの僕はどうしたって遅い。
でもこの日のダビッドは体調がすぐれなかったみたいで、ちょうど僕と同じぐらいのペースで、おしゃべりしながら進んだ。
未舗装山岳地帯では、1日50kmぐらいのペースが目安。
村は点在しているが、店やレストランがない村もある。
ペースが遅いのでなおさら、店が現れるまで長く感じる。
山から流れてくる水には本当に助けられる。
水さえ補給できれば、食料はある程度積んであるので心配ない。
でも軽量スタイルのダビッドはストーブを持っていないので調理はせず、持てる食料は限定されてしまう。
中央アジアの独裁国家はトルクメニスタンだけではない。
タジキスタンでもそこらじゅうで大統領。
ロシアにしても中国にしても中央アジアにしても、この界隈の大陸国家には民主主義は根付かない。
土地柄と歴史に応じた政治形態があるものだ。
雨宿り。
この辺の子たちは、こちらから何も言わなくても「フォト! フォト!」と撮られたがる。
峠へ向かう長い登りになると、僕はこげずに押して歩き、ダビッドとの差はどんどん開いていく。
標高2900mほどのところで、彼は僕を待ってくれていた。
僕はここでキャンプすることにした。
軽量スタイルのダビッドはテントを持っておらず、ハンモックで寝る。
ハンモックを吊るための2本の支柱があるところを見つけるまで進まなければならない。
彼はまだ体力が余っているようで、そのまま進んでいった。
もう森林限界超えてるから木はない、バス停が小屋か、民家にでも泊めてもらえればいいけど。
夕方、すさまじい嵐に襲われた。
大粒のみぞれがテントに打ちつけ、暴風でテントが持ち上がりそうだったので押さえ続けた。
10分ほどで去ったが、外を見たらみぞれがけっこう積もっていた。
ダビッド、生きてっかな。
標高3200m。
下降。
ダビッドと思われるタイヤ跡が続いていた。
嵐の後にできた跡だろうから、たぶん無事。
これ何の警告?
テント生活の遊牧民。
大人たちは僕にたいして興味ないようだが、子供たちは興奮して寄ってきて、すぐになつく。
テントにお邪魔、チャイとパンとヨーグルトをごちそうになった。
標高1200mまで下降。
カレイクムという街で1泊。
夕食朝食付きで135ソモニ(1625円)。
昼頃着いて、腹が減ったと言ったら無料でランチを出してくれた。
Wi-Fiありだが、とても不安定。
Kalai Khum, Tajikistan
ドイツ人のダビッドも一緒に。
夕食朝食付きで60ソモニ(721円)という安さ。
到着したのは15時ぐらいだったのだが、ダビッドが腹が減ったのでランチを食べたいと言ったらランチも無料で作ってくれた。
旅人交流に積極的ではない僕だが、人間やはり相性。
ダビッドとは波長が合うようで、ごく自然にすんなりと仲良くなり、長時間一緒にいても苦にならない。
「一緒に走ろうぜ」と言ったわけでもないのだが、何となく一緒に走ってしまう流れに。
重量というのは走行ペースに非常に大きく影響する。
タジキスタンを走るサイクリストの多くは未舗装山岳走行に特化した軽量スタイル。
大陸横断を前提としている過積載スタイルの僕はどうしたって遅い。
でもこの日のダビッドは体調がすぐれなかったみたいで、ちょうど僕と同じぐらいのペースで、おしゃべりしながら進んだ。
未舗装山岳地帯では、1日50kmぐらいのペースが目安。
村は点在しているが、店やレストランがない村もある。
ペースが遅いのでなおさら、店が現れるまで長く感じる。
山から流れてくる水には本当に助けられる。
水さえ補給できれば、食料はある程度積んであるので心配ない。
でも軽量スタイルのダビッドはストーブを持っていないので調理はせず、持てる食料は限定されてしまう。
中央アジアの独裁国家はトルクメニスタンだけではない。
タジキスタンでもそこらじゅうで大統領。
ロシアにしても中国にしても中央アジアにしても、この界隈の大陸国家には民主主義は根付かない。
土地柄と歴史に応じた政治形態があるものだ。
雨宿り。
この辺の子たちは、こちらから何も言わなくても「フォト! フォト!」と撮られたがる。
峠へ向かう長い登りになると、僕はこげずに押して歩き、ダビッドとの差はどんどん開いていく。
標高2900mほどのところで、彼は僕を待ってくれていた。
僕はここでキャンプすることにした。
軽量スタイルのダビッドはテントを持っておらず、ハンモックで寝る。
ハンモックを吊るための2本の支柱があるところを見つけるまで進まなければならない。
彼はまだ体力が余っているようで、そのまま進んでいった。
もう森林限界超えてるから木はない、バス停が小屋か、民家にでも泊めてもらえればいいけど。
夕方、すさまじい嵐に襲われた。
大粒のみぞれがテントに打ちつけ、暴風でテントが持ち上がりそうだったので押さえ続けた。
10分ほどで去ったが、外を見たらみぞれがけっこう積もっていた。
ダビッド、生きてっかな。
標高3200m。
下降。
ダビッドと思われるタイヤ跡が続いていた。
嵐の後にできた跡だろうから、たぶん無事。
これ何の警告?
テント生活の遊牧民。
大人たちは僕にたいして興味ないようだが、子供たちは興奮して寄ってきて、すぐになつく。
テントにお邪魔、チャイとパンとヨーグルトをごちそうになった。
標高1200mまで下降。
カレイクムという街で1泊。
夕食朝食付きで135ソモニ(1625円)。
昼頃着いて、腹が減ったと言ったら無料でランチを出してくれた。
Wi-Fiありだが、とても不安定。
Kalai Khum, Tajikistan
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